《 パリの地下鉄は、最も事故が多くて、リスクの高い事態への対処を優先して対策がとられている、そして無駄がない・・・そんな国情の違いが伝わってきます。そうした国情の違いを自然に受け入れる素養が養われたリッセでの生活。そこに至るまでの多川茂学園長の薦め。お父様の選択。渡仏等々。人生は、必然か、偶然か・・・。フランスとの運命的な関わりが始まります。 》
Pouuu~Kyu!(プー~キュ!) Mais Fait Gaffe!!(気をつけろ!!)と、怒鳴られて車に轢かれそうになった。今から50年ほど前の1970年9月3日、パリに着いたのは18歳と26日目のときだった。
見習いに入ったパリ郊外の店Camelia(カメリア)の前の道を渡ろうとしたとき、いつものように右を見て渡り始めた瞬間のPouuu~でした。今までの日本の習慣で、右を見て車がいないので渡り始めたのが失敗でした。
フランスに着いた翌日、私の師匠であり、フランスの父親となったJean Delaveyneジャン・ドゥラベーヌが、パリに車で連れて行ってくれました。パリに旅行で行かれた方ならばご存じの、あのオペラ座の前で降ろされ、3時間後にここに戻ってくるように言われたので、地下鉄に乗ることにしました。
パリの地下鉄は分かりやすく、ホームに入る手前に「何々行」と、これから通る駅名だけが書いてあります。分からない人のための案内ですからこれで十分で、ローマ字さえ読めれば、誰でも目的地に行くことができます。日本の駅の表示は、やたらと情報が多いため、かえって分かりにくく不親切な案内になっているように思います。また、安全への配慮も日本と異なり、パリの地下鉄は、駆け込み乗車による事故の防止を重視していて、車両がホームに到着すると同時に、ホームの入り口に設置してあるドアーが閉まります。
電車がつくと、ドアーが開いて乗客が降りてきました。
三つ先のInvalidesアンバリッドヴ廃兵院で降りようとしましたが、ドアーが開きません。次の駅でも開かず、次の駅で他の乗客が自力でドアーを開けて降りたのに続いて、やっと降りることができました。乗るときに自動でドアーが閉まったので、開くのも当然自動だと思った私の無知だったのですが、このとき、本当に何も知らずにフランスに来てしまったのだと、感じました。
無知ゆえの怖いのも知らずで、来られたのかもしれません。
あの時代、団体旅行がほとんどで、個人旅行は少なく、旅行雑誌も少なかったのでしょう。あっても見ていなかったでしょうが。父に上手に乗せられてフランスに来たのです。昨年5月に他界した父には、大変感謝しており、尊敬しております。
一番感謝していることは、私を東京のフランス学校リッセ(Lycee)国立高等専門学校に入れてくれたことです。これが、私の人生を決めることになりました。
学歴はともかくとして、学校歴は名門ばかりで、山口百恵さんが結婚式を挙げた霊南坂幼稚園、麻布小学校、暁星学園と進みましたが、中学3年のときに、リッセが暁星学園の敷地内に移ってきたのが転機となりました。その当時の学園長、多川茂校長(1925年生まれで、在任中に、木更津、ロンドン、アルザスに明確な目的を持った学校を作られた方でした)が偉い方で、父に「暁星よりもリッセに入れたほうが良い」と薦めてくださり、リッセに入ることになりました。
今になって「父がすごかった」と思うのは、中学3年生だった私を、小学校6年生に編入させたことです。3年も学年が下がれば、学校で習う授業内容は分かっているのだから、フランス語が分からなくてもついていけるだろう、ということだったのです。
本当にありがたかったのは、私の学年には、フランスはもちろん、スペイン、イタリア、ドイツ、ポルトガル、アメリカ、ベトナム、ラオス、パラグアイ、日本、コンゴなど色々な国の子供がいましたので、私のなかで、何々人だから好きだとか嫌いだとかという概念がまったく育たなかったことです。確かに嫌いな子もいましたが、それは国籍が理由ではないのです。このことがフランスで、最も役に立ちました。フランスで、堂々と過ごせたのはリッセでの生活のおかげです。
そして、もう一つは、日本では料理に一切関わっていなかったことでした。もちろん、料理屋の息子ですから、小学校4年生からドアボーイやボーイの手伝い、皿洗いはさせられていましたが、料理をしたのはフランスで初めてでした。
これがフランス料理を本格的に覚えるのに一番大事なことでした。それは、料理の基本が大事・・・、料理は基本がすべてだからです。
私の師匠Jean Delaveyneジャン・ドゥラベーヌが教えてくれたことでした。