函南町の火雷神社は、 “国指定の天然記念物” である丹那断層の痕跡が観察できることで知られている。御祭神の神様よりも、“天然記念物”のほうが有名になっているのが、ちょっと残念だが・・・・。
1930年の北伊豆地震の際、ちょうど階段下手前、鳥居の間を走っている丹那断層が、写真の左右方向にズレ動いたために、神社社殿の真正面に建っていた鳥居が左側に2.4m移動し、崩れてしまった。
断層をはっきり観察することができるように、崩れた鳥居の一本の柱がそのまま残され、現在の鳥居は写真の左側方に建てられている。
残念ながら、 “国指定の天然記念物” の説明板に、神社の由縁が食われてしまっているので定かには分からないが、名前からして、火雷神(ほのいかづちのかみ)を御祭神とする、奈良の火雷神社から勘請されたのではないかと思う。
火雷神の誕生は、古事記や日本書紀に登場する物語である。
火雷神は、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)、雷神(いかづちのかみ)、八雷神(やくさいかづちのかみ)とも呼ばれ、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ/火の神)を生んだときに女陰を焼いて死んだ伊邪那美命(いざなみのみこと)の体から生じた8柱の雷神のこと。
伊邪那美命の頭から現れた大雷神は、強烈な雷の威力を。胸から生まれた火雷神は、雷が起こす炎を。腹から生まれた黒雷神は、雷が起こるときに天地が暗くなることを。女陰から生まれた咲雷神は、雷が物を引き裂く姿を。左手から生まれた若雷神は、雷のあとの清々しい地上の姿を。右手から生まれた土雷神は、雷が地上に戻る姿を。左足から生まれた鳴雷神は、鳴り響く雷鳴を。右足から生まれた伏雷神は、雲に潜伏して雷光を走らせる姿を。
つまり、8柱の神は、農耕民族であった古代日本人の、雷に対する畏れや雨の恵みへの感謝から生まれた神様。
『日本書紀』推古天皇26年条には、こんな話が載っているという。
『天皇の命で船を造るため、安芸国において船材を探しに、山に入ったところ、良い材があっため、切ろうとした。ある人が「雷神の宿る木ゆえ、切ってはならない」といって止めたが、「天皇の命令だ」と言って、強行して切ったところ、大雨となり、落雷が起きた。 そこで、「天皇の民を犯すのは恥だぞ」と言って雷神を鎮めると、小さな魚となった雷神が木の股に挟まれていたため、焼魚にして食べてしまった』。
火雷神は、丹塗り矢に変身して賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと・下鴨神社の御祭神)の娘・玉依日売(たまよりひめ)に流れ寄り、上賀茂神社の御祭神となる賀茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)を妊娠させたというのだから、結構、エラい神様だったはず。にもかかわらず、焼き魚にして食べられてしまう。食べられた雷神も雷神だが、よくぞ神様を食べる話を公式記録(?)に残したものである。
ひょっとすると、水辺の大木か何かに落雷したときに、ショックで浮いてきた魚を捕って食べた話かもしれないが、このように書き記すところに日本人の自然への向き合い方、発想の奔放さというか自由さや大らかさがある。
火雷大神は、本来、雷神であり、水の神・雨乞いの神・稲作の守護神。
700年代末~800年代、17~1800年代、富士山がしばしば大噴火し、火を噴いていたことを考えると、火雷神社創建には、 地震だけではなく、火山の噴火と雷の発生など、自然界で起きるあらゆる災害からの身の安全と心の安寧、そして地域全体の弥栄を願った、農民たちの祈りが込められているに違いない。