岡野さんの料理の話を読んでいると、当たり前だと思っていた食事や料理が当たり前ではなく、技術や創意工夫や社会の変化にもまれてきた歴史を感じます。

当たり前の存在を、周囲の変化に対応させていくのか、周囲の変化を先取りして意図をもって変化させることを追求するのか。

正式が正式でなくなり、非常識が常識になる、知っていることに価値があるのではなく知っていることを使うことに価値がある、新しいものにチャレンジする、チャレンジして新しいものを生み出すことに価値がある・・・・面白い時代になってきたと思います。 それが生き残って、定着するかどうかは、また別の問題なのです。

料理屋なので、料理の話をしたいと思います。

前もって申し上げますが、私は、料理人としては片輪だと自覚しております。

それはフランス料理しか作ったことがない、と云ったら少しオーバーですが、日本料理や中華料理などを正式に習ったことがありませんので、私たちの食事、賄いで、なんちゃって中華や、なんちゃって日本料理と云えるような物は作っていますが・・・。

ただ今思うに、これだけ世界が狭く、小さくなった今、何何料理なんて定義づける必要性があるのか、と思える一方、「そうだよ、これが何々料理だよ」と云う気持ちも良く分かります。

正式なんて言葉を簡単に使いましたが、誰が何をもって決めたのでしょうか?

私が思うに、その国、その国の地方、地方に、過去から今に至るまでに残り、この先につながっていった物が、つまり各家庭、家庭で作っている物が正式なのだと思います。

何でこんな理屈っぽい、なんちゃって哲学的なことを書いているのかというと、それはコロナ騒動の前に行った麻布赤坂図書館が犯人なのです。

図書館が近いので、ほぼ毎週利用させていただいております。ふだん通らないフランス関係の棚で、一冊の本が目に止まりました。

『歴史の証人ホテル・リッツ(生と死、そして裏切り)』(ティラー・J・マッツッオ著、羽田詩津子訳、東京創元社)

懐かしいので手に取って見ると、表紙にパリの凱旋門を背に馬上のドイツ兵の写真。えっと思い、パラパラとページをめくってみると、また、えっと思いました。

借りて読んでみると、えっ本当、本当なの、と云う事実が・・・、皆さま、是非お読みください。例えば、あのホー・チ・ミンが若いときに洗い場にいたとか、こんなに薬剤中毒があったのかとかです。

で、料理なのですが、と云うと、前にもお話ししましたが、見習い後にお世話になったオジエ氏(当時のフランス料理協会会長)は、19歳から24歳に、ホテル・リッツの共同経営者のオギュスト・エスコフィエの下、セクション・チーフとして仕え、オジエ氏の店に一緒に写っている写真がありました。

私にとって、エスコフィエと云う人は、雲の上の存在で、フランス料理を統一した偉大な料理人という知識しか、なかったのです。

この本によると、

『オギュスト・エスコフィエが、パリの食事を現代的な物に変えた。ロンドンでは、レディー・ド・クレイの助けを得て、彼はすでにハイティ〔岡野注:夕方、6時から夜の食事を兼ねたお茶会。アフタヌーン・ティーよりも遅い時間で紅茶、コーヒー、アルコール類〕を広め、女性が公共の場で食事をすることを流行らせた。エスコフィエは現代的な食事を創造し、「ロシア風サービス」を人気にした。すなわちコースで料理を出すやり方だ。それまで何十年もフランス特権階級は、手の込んだ料理がどっさり載ったビュッフェを楽しんできた。だがエスコフィエは、高級レストランの食事のために〔岡野注:プリフィクスPrix(価格)Fixe(一定の)=定価〕のメニューを発明した。』

と、書いてありました。

前にも書きましたが、フランス料理に大変革をもたらしたのは、鍋の底が平になったことと、フランス革命だったのですが、エスコフィエの「女性が公共の場で食事をすること」が加わったのです。

18世紀、19世紀の食事風景のエッチングを見ると、ほとんどが男性だけの食事風景なのです。これも大きなことだったのです。女性がともに食事することの大事さは、1970年にフランスに渡ったときに驚いたことの一つに、カップルが、カフェやレストランで対面に座るよりも、横並びの方が多かったことがあります。

これはレストランの発展による結果です。

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