電話は、発明された19世紀末当時には、個人用の会話メディアとして使われていたのではなかった。むしろ、劇場における演劇やコンサートや演説を中継したり、スポーツや選挙結果を報道したりするメディアとして発達していった。
これが富裕層に広がり、高額な年鑑契約料と利用料を支払うことで、居ながらにしてオペラや演劇の中継を楽しむようになる。通信手段としての電話と放送手段としてのラジオは、あまり区別されずに存在していた。
その後、やっと大衆的なスロット式電話機が、イギリスやフランスの避暑地やホテルに登場して、通信手段が一般化していった。
現代のネット社会では、誰もが個人で通信手段を持ち、個人が発信する情報が放送されるようになった。昔は、放送される情報には一定の信頼があったのだが、今は情報を受け取る者が、その信頼性を自分自身で判断しなければならない時代になった。
何の根拠もなく「そう思った」「そう感じた」ものが、正しいと信じられるようになってしまっていて、個人の判断基準はどこに依っているのかは分からない。
私は、本を読んで情報を集めていたときには、右も左も、関係すると思われるものを手当たり次第に読みあさって、正しいと思えるものを見つけるようにしていたが、ネット社会では、それを見つけるのが極めて難しくなったように思う。
気に入ったものを見つけるのは簡単なのだが、一次情報か二次情報かの区別がつきにくいし、根拠をもって語っているのか聞きかじってそう思っただけなのか、素人なのか専門家なのか、実に見分けにくい。
独断と偏見に満ちた考えが、説得力を持っていたりする。
学者などの専門家と称する方々が、平気で自分の専門外のことを語っていて、情報を発信している人たちが、自分が語ることに責任を持っているかどうかが判断しにくい。
しかも悲しいかな、情報量が多すぎて、そういう情報を精査するだけの余裕がない。
本を読んで身につけた判断能力を活かして価値を判断するしかないという現状が皮肉に感じられてしまう。
情報を発信する側にとっては、いかに信頼性の高い情報を発信できるかによって、自分自身の価値が決まってくる。よって、信頼できる情報を発信したい人たちは、メディアによって偏りを生じさせられないように、自分で使うメディアを選択するようになってきている。
逆に、情報を受け取る側は、有象無象の情報資料のなかから、価値のある情報を精査する情報処理能力が求められる時代になる。
数多の情報資料の中から価値のある情報を見出すことのできる人、価値のある情報を発信できる人が情報化社会で頭角を現すのだろう。
最後になって、「情報」と「情報資料」という言葉を使い分けてみたが、自分の求める価値があると判断したものが「情報」で、まだ価値を判断していないものが「情報資料」。
陸上自衛隊で最も質が高くて価値があったと思う教育が、「戦略情報課程」という1年間の情報教育。
教官に恵まれて、毎日が実に面白くて、本当に真剣に夜中まで議論した思い出がある。
そのお世話になった教官から年賀状を頂いたので、「情報」テーマで書いてみた。
感謝。