国内派の私には、一瞬、「国境管理がいい加減なんだな」と思ったのですが、そこに住む人の生活があってこその国なのであって、国境ありきではないということでしょう。今の日本人の感覚ではなく、大名が群雄割拠する戦国時代に、庶民が諸国を往来していたような感覚の方があっているのかもしれない、と思ってナットク。

10年ちょっとフランスに住んでいましたが、私のパスポートには、日本とフランスの税関の印しか押されていません。韓国の追っかけをしている姪は同じく、日本と韓国だけですが、パスポートにはぎっしりと印が押されて、1冊はもう終わって、2冊目を持っています。私のパスポートは、たったの2ページです。

イタリアには3回、スイスに1回、スペインにも1回行っています。

イタリアには、Yシャツの買い出しに2回。フランスで買うのと同じものが半額以下で買えるので。3回目は、実はこれが一番最初なのですが、カメリアのボーイ、Didietディディエの「結婚式に私のシトロエン2cvドゥウシュボ550ccでワインを120本買って、パリからイタリアの国境沿いの村、Sospelソスペルへ。約950km。ディディエ曰く、「ドゥシゥボなのでスピードは出ないからリヨンまで高速で500km。その先はナポレオンが凱旋したときに使った道、ナポレオン街道で行こう」と。これが失敗でした。山道は大変美しいのですが、120本は重すぎました。峠では、2速にギアが入らないのです。高速で行けば、10時間で着くはずでしたが、15時間もかかりました。私は右腕、ディディエは左腕に日焼けをして着きました。

このソスベルで、イタリアの隣村から祭りの招待があり、10人ほどで行きましたが、山の生活道路という程の道で税関がありませんでした。その後の2回は、パスポートを出したならば、「フランスの滞在許可証や労働許可証は持っているか」と尋ねられ、見せると「通りなさい」と。「記念だから、パスポートに押して下さい」と言っても、押してくれませんでした。

スイスには仕事で。サントンのジェラルドゥ氏がイタリアとフランスにまたがるMajeurマジュール湖畔のLocarnoロッカルノのホテル王に頼まれて、フランス料理のフェスティバルをしに、1週間行きました。このホテル王の名を失念しましたが、自動車のコレクターで、お客様の出迎え用にクラシックのロールスロイス3台と、ベントレーを2台持っておられ、アドルフ・ヒットラーのファントムも所有しておられました。

出迎えを受けてホテルを案内していただき、夕食をメインダイニングでいただき、ビックリしました。28cmの24金のプレートの上に美しいレースが敷かれ、その上にお皿を置くのです。その豪華さ、戦火に塗れていないので、ある面、パリのリッツより豪華なのかもしれません。

料理は、牛ヒレ肉のステーキ・ロッシーニ風で、ヒレ肉を焼き、取り出してからフォアグラをさっと火を通して上げ、フォアグラの脂が出ているのでそのなかにイギリスパン(日本の食パン)を焼き、取り出し、トリフのスライスをさっと炒め、ヒレ肉を戻して、コニャックでフランベ(火をつけてアルコールを飛ばして香りをつける)して、ポルト酒とシェリー酒を少し入れ、火を消し、ドミグラスというソースを入れてペリグールソースを作り、スライスパンにドミグラスソースを煮詰めた物を塗り、一番下にヒレ肉、その上にスライスパン、フォアグラを載せ、トリフの入ったペリグールソースをかけて食するのですが、こちらのホテルはさらに豪華に、アーモンドスライスのバター炒めが載っておりました。少ししつこかったです。スイスでは、鱒のムニエール・アーモンドスライス添えが有名ですので、多分それをヒントにしたのでしょう。

もっと驚いたのは、ホテルのご主人が、明日から2週間の兵役に行かれると話されたのです。スイスでは1年の兵役後も、毎年2週間の兵役か、お金を払うかを選ぶのだそうです。永久中立国でも、ある面、軍事大国なのだと思いました。

このとき、高速道路でイタリアを抜けてスイスに入りましたが、押してもらえませんでした。そして、スペインです。サントンのジルベールの実家がスペイン国境から35kmのBearnベルネ地方の首都Pauポで、HenriⅣヘンリー4世(1553~1610年)の出生地で、初代ブルボン王朝国王、Pauポは、ヘンリー4世を祝して作られたSauce Bearnaiseソース・ベルネーズ(エシャロットのみじん切りを色づけずにバターで炒め、白ワインとワインビネガーと少量の黒の粒胡椒を入れて煮詰め、水を少し足して卵黄を入れてホイッパーでかき回しながら熱を加えて火を通し、バターを加えてシノワ(うらごし器)で漉し、新たにパセリ、セルフィユ、エストラゴンのみじん切りを入れて塩で味を整える)が有名です。

さて、ジルベールの家に2回、泊まりがけで遊びに行きました。ジルベールは、長身家族の次男で、兄弟では一番背が低くて187cmありました。ご両親はともに180cmを超えておられ、1番背が高いのは1番下のMichelミッシェルで、当時16歳でしたが、あと1cmで2mでした。可哀相に、成長点が伸びる病気を持っていて、あと10~15cmは伸びるのではないかと言われていて、彼はGパンを買った時点で短いのでした。

ミシェルはすごく優しい子で、「TOTOトト(私のあだ名)、スペインまでピレネを超えて行くので一緒に行くかい?」と言ってきました。聞いてみると、自転車で行くとのことで断りましたが、私は自転車ではなく90ccのモビレットで行くことにしました。

ということで、ピレネを超えてスペインへ入ったのですが、ここの税関でも押してもらえずに、私のパスポートは寂しい有様です。