2011年3月11日、東日本大震災時、米軍が実施した「トモダチ作戦」における米国軍人たちの誠意に溢れた、心温まる支援活動は、草の根レベルで日本人の心に焼き付き、危うい雰囲気が漂っていた日米の信頼関係を一段と強く、高い位置に引き上げました。
私は、このときの米国の真骨頂は、四軍の驚くべき早さでの初動にあり、米軍による仙台空港の復旧活動がその象徴であったと思っています。その動きを、時間を追って、簡単に、紹介したいと思います。
発災当初、東北自動車道、常磐自動車道、鉄道、仙台空港、仙台港という、陸海空の交通の主要な端末地が使えない状態になりました。軍事作戦で言えば「地域被害対策」という、いかに早く交通の端末地を復旧するかが、救急救命活動はもちろん、後の本格的な復旧活動の開始に決定的に影響を与える作戦で、あまり前例のないものでした。
宮城県内にある第2施設団は自動的に指定された担当地域の救援活動を開始しており、道路網が寸断され、他地域から新たな施設部隊を投入できない状況。
当時、私は第11旅団長として札幌から見ていましたが、(まったく情報がなかったとは言え)岡目八目で見ていても、打つ手が思いつかない状況でした。
3月12日、米軍は防衛省の日米共同調整所において、仙台空港の復旧支援を打診します。
私の知る限り、端末地の復旧について言及したのは米軍が最初で、その提案で、「一日も早く使えるようにして、救援物資輸送のハブ(中核)にする」「仙台空港を被災地復興のシンボルにする」というコンセプトが示されます。
3月13日の仙台空港の状況は、瓦礫と汚泥、百台以上の押し流された車両で埋め尽くされ、陸上自衛隊による人命救助が行われていました。
そこに嘉手納空港に所在するアメリカ太平洋軍指揮下の第353特殊作戦軍が投入され、空軍と海兵隊との共同作戦が開始されます。
13日に着陸地点の地上偵察、
14~15日に応急の着陸地域の準備・偵察、
16日に航空管制業務等を準備し、同日中には1500m滑走路が復旧しMC-130H輸送機により装備品を搬入して重機による瓦礫撤去に着手、
20日にトモダチ作戦のための部隊を投入することができます。
この仙台空港の復旧があってこその、トモダチ作戦でありました。
そして、28日に3000m滑走路の全長を復旧させ、
31日に航空管制業務を引き渡します。
この間、松島基地司令の杉山政樹空将補の素晴らしいリーダーシップによって13日には基地の滑走路が使えるようになっていたことと、空港整備を担う民間業者の不眠不休の努力があったことは、特筆に値します。
松島基地の滑走路がいち早く使用可能になっていたことで、日本国が独力で復旧活動に着手したことを内外に示した、極めて大きな価値のある活動でした。
松島基地が使用できず、仙台空港に米軍の空挺部隊が降下したところから被災地の復旧に着手されていたならば、我が国の初動対処能力(危機管理能力、ひいては防衛能力)に対して、国際社会がどのような評価を下すことになったかを想像すれば、この意義を理解して頂けると思います。
私が米軍の動きで注目したのは、「突発的な事象」であったにもかかわらず、異なる指揮系統の四軍から同時に大統領に報告がなされた、「完全なシビリアン・コントロール(政治統制)下での決心」であったことです。
現地部隊の自主的判断で雨後隊のではなく、「米国大統領の意思」として実行された「他国」における「統合作戦」であったということです。
米軍は、地域被害対策の焦点となる、被災地の端末地、仙台空港をピンポイントで示し、復興につながるコンセプトを提示しています。
災害情報に関する基礎的な分析は、用意されていたのではないか。
この米軍のオペレーション、システムなどから学ぶべきものは、奈辺にあるのか。
政治家も、自衛官も、よくよく考えなければいけない課題があると思います。
《追記:当時、第11旅団は、南スーダン派遣準備部隊に指定されていましたから、唯一、北海道で待機していました。毎朝のミーティングで自衛隊の災害救援活動の状況をフォローするだけでは面白くないので、約3ヶ月間毎日テーマを示し、自衛隊、米軍、関係機関、支援部隊、その他の情報を報告させ、司令部全員で情報共有していました。
米軍の非常に的確で迅速な判断に着目し、3月12日以降、米軍がネット等で公表したニュースを資料源に、米軍の動きを逐一追っていました。
素晴らしい幕僚活動で、当時の部下には、心から感謝しております。
そして松島基地復旧の意義は、もっと多くの人々に理解して頂きたいと思っています。》