《「かなし」という言葉は、心が痛むさまを表す古語で、とても切ない、心苦しいさまさまなどを意味する表現だとされています。

この「かなし」に、漢字では「愛し」(①しみじみとかわいい。いとしい。②身にしみておもしろい。すばらしい。心が引かれる。)と「悲し・哀し」(①切なく悲しい。②ふびんだ。かわいそうだ。③くやしい。残念だ。しゃくだ。④貧しい。生活が苦しい。)の二通りの漢字が当てられていて、高校生の頃、「訳の分からぬ言葉だな」と・・・。

同時に、「愛しい」気持ちの裏返しとして「悲しい」気持ちがあり、「悲しい」気持ちの裏には「愛しい」気持ちがある、その両方を表現しているのだとしたら、凄い、奥深い表現だな、と思ったことがありました。

日本語を学ぶということは、論理を学ぶと同時に、いや、それ以上に、言葉の底に流れる風雑な感情表現を学ぶことではないでしょうか。 そんな日本人の複雑系の心を表した、「かなしい」お話しです。》

「悲しい」という場面は特になく、強いて云えば、仲の良い友人が離婚したことです。

どちらも夫婦共々、私と大変仲が良く、1人目はカメリアのボーイでDidierディディエと云います。彼の結婚披露宴に使う赤ワインを120本、パリで買い付けて、私のシトロエン2CV(ドゥウシュボ)で地中海のイタリア国境沿いのソスペルまで約950km。朝の5時にパリ郊外から高速A7、Autoroute du Soleil(オト・ルットゥ・ソレイユ通称太陽の高速)に乗り、いざソスペルへ。

ディディエ曰く、「古い2CVなのでスピードが出ないからリヨンまで高速で行き、リヨンからグルノーブル経由でナポレオン街道(1815年3月に失脚し、島流しにされていたナポレオンがエルバ島から脱出した。カンヌCannesに近い、ゴルフ・ジュアンGolf Juanに上陸→カンヌCannes→グラースGrasse→ディーヌDigne→システロンSisteron→ガップGap→グルノーブルGrenoble、約320km、国道N85ガメイン街道)で、カンヌを抜けて母の住んでいるニースNiceまで。今日、行こう」と。

これが大変なことの始まりでした。

 高速道路の平地ではちゃんと時速100kmぐらいで走りました。昼前にリヨンに着き、高速を降りて、途中の村で昼食をとり、国道N85でグルノーブルへ。グルノーブルは、皆さんも覚えておいででしょうが、冬季オリンピックが行われたところです。冬のスポーツの花形と云えばスキー。スキーができると云うことは当然、山です。私の可愛い古い2CV、550ccの車は山道に入ると、ワイン120本を積んでいるので4速ギアの2速にギアが入りません。スピードが出ずに延々と続く山道。車と同じく、だんだん私も不機嫌になり、ディディエが必死で私をなだめながらアルプス越えをし、夜の8時にニースに着きました。

ディディエも運転できるのですが、軍での免許で、一般の免許は持っていませんでした。2CVという車は大変面白く、おかしな話で、ちゃんと鍵がかかるのですが、屋根は簡単に開きます。丈夫なビニール製のキャンバスでできていて、巻き上げて開けることができるのです。

私たちは熱いのでズボンを巻き上げ、屋根を開けて、アルプス越えをしていました。ディディエは、私の疲れを読み取って、途中で運転を代わってくれました。ニースに着く前の市内に入る国道で、検問をしていたのです。屋根が開いていたのが幸いして、走りながら運転を入れ替わり、難を逃れました。内緒。その夜、運転をしていた私は右腕と両足の股、ディディエは、左腕と股を真っ赤に日焼けして、痛がっていたのを覚えています。

その夜、ディディエのお母さんに、夕食を作っていただきました。

生ハムと手作りのパスタ。この手作りのパスタは、La merde de chien ラ・メャルドゥ・ドゥ・シアン、“犬のうんち”と云い、ちょっと汚い呼び名ですが、大人の小指くらいに、手のひらでのばしただけのパスタをトマトソースで食しました。大変美味しかったです。さすが、ディディエの家系はイタリア。名もRicciリッチで、その量の多さにはビックリ。私も大食いですが、このときには3人前ぐらいでした。ディディエ曰く、「これは前菜、オードブル」で、この後にステーキが出たのです。折角お母さんに作っていただいたので、必死になって食べました。いい思い出です。

翌日、ソスペルへ。大変楽しい、素敵な結婚式。披露宴では、Jarretiereジャレティエール靴下どめ、という風習があり、新妻の靴下どめを競売にかけて、新婚夫婦の新生活のためにお金を集めるのです。普通は、最後に父親が競り落とすのですが、私がいただきました。

新妻エレーヌの実家は、あの有名なMonacoモナコで、ソスペルにお父様が、何年もかけてご自分で作られた別荘があり、8月のバカンスはこちらで過ごすそうです。素晴らしい建物で、まるで職人が作ったような家でした。

Sospelは小さな村(広さ62.39㎢、人口1,828人/1975年、3,520人/2008年、イタリアの国境まで4~5kmの山村)で、ちなみにMonaco(広さ2.02㎢、人口36,371人、人口密度15,142人/㎢)、東京西麻布(0.58㎢、人口11,111人)。

村の中央に川が流れており、そこに洗濯場がありました。深さ1m、幅2m、長さ3mの槽(おけ)が屋根の下に2槽あり、川から水を取り入れて下槽で洗い、上槽で濯ぎます。8月の燦々と降り注ぐ太陽の下でする洗濯の楽しさ。そして絞ったTシャツをバンッと広げて干すと、ものの10分で乾いていました。

ソスペルの青年会の会長が、やはりモナコ人で、モナコ公国の公立病院の外科医師で、芸能人お知り合いが多く、8月の祭りのときに、昨年はシルビー・バルタ。この年には、セルジュ・ラマという、声量のある歌手を呼びました。会場は教会前の広場で、反響が大変よく、ラマはそれに気付くと、マイクなしで歌ってくれました。大変素晴らしく、大喝采でした。前年のシルビー・バルタは口パクだったらしく、余計に違いが出たようです。

エレーヌは、まだニースの大学生で、パリのソルボンヌに入り直しました。しかし、ディディエには彼女がおり、結婚後、僅か半年で別れてしまいました。その後、店も辞めて、彼女とアフリカに行ってしまったと、人伝に聞きました。

もう一人は、地中海のレサントンのボーイをしていたJilbertジルベール。私とドミニック、ジルベールはいつも一緒で、三バカ大将と云われていました。私がレサントンに入った翌年、ドミニックとジルベールは、パリのシベルタのオープンに参加するため、パリに登りました。私も前からセコンドできてくれと頼まれていたところに妹の件がありシベルタに移ったので、また三人になりました。

ジルベールのかみさん、フランソワーズは、ドミニックの妻、ジャネットの親戚で、看護婦をしていました。シベルタに入って3年目のある日、調理場に電話があり、フランソワーズからでした。私に相談があるので、急いできて欲しいとのこと。

急いで行くと、離婚の話。

ビックリで、フランソワーズ曰く、すべてフランソワーズが悪いとのこと。パークの休みに1人で地中海にいるドミニックのところに遊びに行って(このとき、ドミニックは地中海に戻っていた)ある男性と知り合ってしまったのだと。ジルベールが嫌いになったわけではないこと。でも、もうその人のことしか考えられないこと。私もフランソワーズの誠実さをよく理解しているので、「分かった」と返事をしました。

するとフランソワーズから「Toshio、ジルベールが心配だからケアーをして。お願い」と云われ、これも承諾しました。

2~3日前から、ジルベールの様子がおかしいと思っていた矢先のことでした。しょうがない。しかし、今でも、ジルベールの心に深い傷になってしまいました。

悲しい話です。

https://www.saibouken.or.jp/archives/2910