《“その世界”の人と間違われる人がいる。顔がごついとか、押しが強いとかという問題ではない。何回か、そういう場面に遭遇したが、シチュエーションが共通している。
最初に非礼なのは先方で、注意するのがこちら側。
「静かにしなさい。何様か知らないけれど、周りの人に迷惑だ。あんたのところでは、そんなことも教えていないのか」「失礼いたしました。どちらさまの姉御で?」「姉御なんかじゃない。あんたなんかに親しくされる覚えはない」ってな感じでの会話がかわされる。
男は「親分」、女は「姉御」と呼ばれる。
道理が通っている。人間の迫力がある。見下すわけでも、へつらうわけでもない。気っ風がいい。そして、ちょっと間を置いて、「ちょっと悪かったからあの人たちに、一本付けといたげて」という具合に、優しい気配りがある。 “その世界”の人でなくても惹かれてしまう、魅力のある方たちだった。》
コロナ禍のなか、山の神より、どうせ書くならもっと明るい話はないの、と。文章を清書する前に、静子編集長の判子を貰わないと先に進めません。ハードルが高いのです。あなたにしか分からない世界を書けばいいじゃないの、と勝手なことを宣うのです。
と云うことで、今回はパリでの生活について書きます。最初に断っておきますが、パリの生活と云っても、ホテル・リッツにいた6ヶ月、そして最後の店、シベルタの3年です。それも朝9時から14時30分。そして18時から23時は仕事(料理を作っていました)。ああ、そういえば、途中、シベルタが火事に遭い、パリの日本交通公社にも6ヶ月ほどお世話になりました。確かに、土日は休みでした。リッツは2交代制で、シルビーという女性と、しばらく同棲しておりました。この頃は、モテたのでした。これは初めて書くことで、家内、静子にも話していません。何か事が起きたら、皆さんの所為ですよ。くわばら、くわばら。
それはさておき、皆さんのパリのイメージはどんなものでしょう。
まず、女性にはファッションでしょう。確かに。そして観光地。エッフェル塔、凱旋門、モンマルトルの丘。これもその通りです。男性には、夜の町。これは、今は無いでしょう。そして、美術館と教会。
私が1番最初に思ったのが、というより実感したのが、パリって意外に小さいことでした。フランスに渡った当時、お金が無かったので、パリ市内はどこへ行くのも歩いていました。何の不便も無く、地下鉄の次の駅の灯りが見える駅がたくさんあります。
ちょっと調べてみました。パリ市内は、86.99㎢。ちなみに東京の山手線の内側は、63㎢だそうです。東京では、渋谷から新宿の繁華街は近いですが、上野、銀座となると広くなります。
パリは、セーヌ川の中州のシテ島から、エスカルゴ、カタツムリのように発展していった街なので、繁華街は中心に集中しております。初めてパリにいらっしゃる方には、パリ半日観光か、1日観光をご利用なさることをお勧めします。パリの概要がつかめます。家内と、次回、パリを訪れるときには、絶対に乗ろうと話しております。
そして次は、街並みがきれいに統一されていることと街路樹が多い街だな、と思います。セーヌ県の知事だったジョルジュ・オスマンがパリの大改造を行い、その折、外壁に使う石や屋根の形まで規制したそうです。
実はこれらの住宅の内側には中庭があり、花を植えたり、洗濯物を干していたりの生活色が滲み出ております。ほとんどの建物が、この大改造時代に建てられた物で、6~7階でもエレベーターがありません。上がろうとする階段のところにスイッチがあり、付けると、その上の階に到達する頃に消えるようにタイマーができており、またその上に上がるならば、階段のところでスイッチを押して、上がっていくのです。
あっ、そうそう、7年ぐらい前に坂倉準三先生のところで新宿西口広場の設計をなさった先生が、昔は2階に住んで、最上階にメイドさんを住まわせるのがパリでは流行ったのだけど、今はエレベーターを付けて最上階に住むのが流行っているんだよ。そして通りを美しくするために同じ石を使うと税金が安かったんだよ、と教えてくれました。
日本では、“その世界”という方々がいらっしゃいます。チンピラという人たち。東京では、一目で“その世界”の方だと分かるのですが、パリではそれが分からないのです。こんなことがありました。もう35年も前の話です。
銀座にダイアナという靴屋さんがあります。そこの息子が谷口君という暁星の同級生で、彼もパリのシャルル・ジョルダンに研修に来ており、私が帰国したある日「岡野、先日は参ったよ」「おう、どうした」「店の前でブス男に声をかけられたんだよ」。これですべて分かりました。
このブス男なる人物は、やはり同級生で、気心の優しい人物で、中学1年生のときからマンガに出てくるブス男に似ていたので、卒業するまで、ブス男で通っていました。話はこれからが本番で、彼が大学のヨーロッパ卒業旅行で、ある女性と知り合ったのです。とてもいい仲になり、帰国しても付き合っていました。この女性のお父様が“その世界”の人で、彼はそちらに就職したのでした。
そして谷口君と会ったときは、ちょうど部下を連れて車から降りてきたときだったのです。「で、どうした」「後で、ブス男に電話したよ。頼むから店では声かけるなよ。な、分かるだろうってね。そしたら、ブス男が、あ、悪い、悪い。つい声かけちゃって、ごめん、ごめんって。あいついい奴なんだけどな~」という話でした。一目でその筋の人だと分かるスーツを着ていたそうです。
リッツに勤めていたときにドミニックが見つけてくれたピガール。東京で云えば、浅草みたいなところで、ムーランルージュなどがある夜の世界の下町です。ピガールの駅から5~6分のところに住んでいました。ある晩、行きつけのカフェで、パイプのたばこを買いながらビールを飲んでいたとき、たぶん刑事だと思う警察官が15人位入ってきました。その先頭のスーツを着た人が拳銃を手に、1人のおじさんに詰め寄ったのを、ほんの3mぐらいのところで見ました。何も云わずに、でした。
そのおじさんは、本当に普通のお父さんでした。映画の見過ぎだと思いますが、アラン・ドロンの映画のなかでも、“その世界”の人は、雰囲気だけでは分かりません。
ニューヨークは行ったことがないので分かりませんが、分かるのかななんて、ちょっと興味があります。若者の流行はありますが、パリはそういう街です。
70年代当時は、まだスパーマーケットがあまりなく、個人商店が盛業の時代でした。市場が早いので、食品関係の店は朝8時には開いていました。市場では、朝早い時間帯の方が、物が安く手に入るからです。日本では、全部売り切ろうとして、遅い時間帯の方が安くなる傾向があります。スパーの半額セールがその例でしょう。
もちろん、パン屋さんは、朝6時には最初の窯のパンが焼き上がっていました。皆さんが思っている以上に朝型なのです。
夜は夜での世界があるのですが、一つはテレビが影響しているのだと思います。テレビは国営放送で2チャンネルしかありませんでした。それも1日中、放送しているわけでもありませんし、日本人ほどテレビに依存しておりません。 テレビはあっても、食事中は家族の会話が無くなるから、付けない家庭も、意外に多かったです。