《あまり医者とは縁がない。まったくないわけではない。学生の頃、クラブ活動で頭をぶつけて健忘症になって入院。記憶喪失を経験した貴重な経験の数日間。胃潰瘍を起こしたピロリ菌退治で数日。痔疾・・・・。

友達になりたくないと思ったのは歯医者。奥歯とその下の奥歯と同じ大きさの親知らずを一挙に抜いたこと。それは良かったのだが、抜いた後しばらく経って、歯茎を痛めて診てもらった女医さんに「手入れが悪いと、次から次へと抜けていきます」と言われ、真顔で「治りません」と指導されたイメージは、頭の芯から響くように痛かった思い出と重なってしまった。その後、根本的に治療する機会があったので、まったく問題がなくなったのだが、それまではなんとも心配で・・・。

医は仁術。病気はその人の身体のなかから生まれるもの。医者は皆、患者の心を治療するのが本業で、どの部位を扱うのかは些末な違いなのかも知れないと思うようになったが、いかがなものか。》

その人物と出会ったのは、フランスに渡って2年目に入った1972年10月のことでした。フランスの生活にも仕事にも慣れ、暖かくなった春先から10月位までは高下駄を履いて、休みの日にはパリの町を闊歩していた頃でした。前の項に出てきたサン・ラザール駅は、私が見習いをしていたカメリアがあるBaugivalブジバルの町の駅で、ブロターニュ地方行きの発着駅で、私はブジバル駅から歩いて5分ぐらいのところに住んでいました。

パリに出るのは、2年目まではこの駅から鉄道でサン・ラザールへ。3年目からは従業員が増えたので、店近くの団地のアパートに4人で住んでいたので店の前のセーヌ川のところからバスでパリに行っておりました。

サン・ラザール駅には、週に1回シャワーを浴びに行っていました。フランスでは、この頃、風呂はもちろんシャワーもなく生活している人たちが結構おり、洗面器一杯の水Gant de toiletteガン・ドゥ・トワレットと云うタオル地の13cm×9cmぐらいの袋の中に手を入れて、全身を器用に洗うのです。正直、フランスで1番辛かったのが、風呂には入れないことでした。

あ~、これを書いていると、色々と思い出します。思い出すまま、書いていきます。

そうそう、皆で住むまでの2年間は、私のアパートと云っても近代的なマンションのメイド部屋で、ただ洗面台があるだけでしたが、立派なプールがあったのです。夏場はプールがあったので良かったのですが、冬は、風呂が恋しかったです。

フランスで1番最初に誓ったのが、もう皆さんお分かりのことと思いますが、いつか絶対に風呂のあるアパートには入れるように出世してやる、でした。それがかなえられたのが、妹と住んだ7年目でした。と云うよりも、風呂付きを探してもらったんです。ドミニックに。

で、またドミニックが出てきました。なぜかと云うと、ドミニックは泳げないのです。ビックリしました。1970年代の小学生以上で、泳げない日本の子供はいたでしょうか。私が小学生のとき、もう夏の体育の授業で習っていましたから。

そう、この当時、フランス人で泳げない人は、結構いたのです。

フランスの地図を思い浮かべてみて下さい。太平洋と地中海、ドーバ海峡。セーヌ川にロワール川、ローヌ川にガロンヌ川と大きな川も、オーベルニュの中央山脈、アルプス山脈、そしてスペイン国境のピレネー山脈。リヨンから北西部には、広大なブドウ園と小麦畑と思って下さい。ガロンヌ川があるボルドー地方もブドウ畑。すごく大まかですが、この北西部とボルドー地方には、大きな都市はなく、村を大きくしたような町が多く、日本のように小学校にプールがあるわけではなく、スポーツセンターという感じです。

で、話をドミニックに戻すと、休み時間と夜に、パスカルと2人で教えたのです。でも何回目かに私たちは諦めました。私たちは水泳のプロではないので、パスカルが出した結論です。なんであのデブが浮かないんだよ、あれだけ脂肪がついているのに、でした。私と同意見で、結局、休み時間にスイミングクラブに行くことになりました。

あれ、どこかで似たような話を聞いたぞ。そうだ谷口だ。そう、前出の谷口君が、確か、あれは37歳ぐらいのとき、「オイ、岡野。俺、スイミングスクールに行ってるんだよ。今」「えっ、お前泳げないの」「うん」「だって俺らが中2のとき、修道院の宿舎を潰してプールをつくったじゃないの。で、泳げないんだ」「そう、泳げないので俺、云ったんだ」「何を」「先生、トライアスロンをやりたいので、クロールだけ教えて下さいって」「えっと云うよりも、お前、自分の年齢を考えろよ。で、先生は、何て」「ああ、笑っていたよ。だって平泳ぎじゃないじゃん。レースでは」と。その後、彼は年に4~5回トライアスロンのレースに出ている、私の尊敬できる友人の1人です。

実はこのサン・ラザール駅の目の前に目的地はあるのです。ビリヤード場が。そこに卓球台が2台あったのです。私は暁星時代に卓球部に入っていて、フランスにも一式持ってきていました。卓球シューズもです。そこには、60歳ぐらいのベトナム人の老人が仕切っていました。勝ち抜き戦で、勝った人に待っている人が順番に挑戦していくのです。勝っている人は、ずーっとできるのです。

と云うわけで、この稿の主人公の医師が登場するのです。で、いつも最後まで残るのが彼と私だったのです。後で書きますが、私はそんなに強くないのですが、でも事実として、そうなっていったのでした。そのうち話すようになり、夕食をともに摂るように。それで彼が医者であることが分かったのです。彼は私の仕事に興味を持つようになり、というよりもいつもはスマッシュして勝っていたのに、それを返すのが現れたのです。それが私で、闘うのが楽しくなり、話すように、そして食事へと発展していったのです。

彼はインターンが2年前に終わり、今の部署の2年生で、私と同じで、ココの卓球場でスマッシュをすることでストレスを発散していたと云っていました。で、患者さんの回復を目の当たりにすると、こんな良い仕事があるのかと、神と両親に感謝していると云っておりました。 その頃、私はまだ何も分からずに無我夢中でした。

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