組織は機能集団である、機能集団だから、必要とされる機能に応じて、適材適所で人材を使うのだ、ということになります。
そうすると、機能の適合と不適合、機能発揮のレベルに応じて、能力が評価されるようになります。
能力主義です。
仕事ができるかできないかだけを問題にして評価するようになると、年齢差は関係なく仕事ができるかできないかだけが問題にされるので、年齢の違いは問題ではなくなります。
つまり、年功序列はなくなり、定年も不必要になるのです。
自分が仕事に適合しているか否かだけを考えるようになると、職業選択の発想も広がってきて、仕事や職業選択の考え方が変わってきます。
良いことばかりかと言うとそうでもなくて、また違った見方も出てきます。
仕事と能力が適合する人は良いけれど、世の中にはそうではない人の方が多いのです。その人たちにとって、一日の大半の時間と精力を仕事に注ぎ込んでいるにもかかわらず、評価されないことに不満を持つ人が出てきます。
仕事に適合している者よりも、仕事に適合していないオレ達の苦労の方が多いのだと言う者まで出てきます。それはそうかも知れませんが・・・・。
仕事で適合していないというと、人間そのものの出来が悪いかのように評価されていると思う人が出てきます。自尊心の問題です。
そこでリーダーの役割が出てきます。
仕事への適合性で評価しているだけで、人間そのものを評価しているわけではないのですから、それを納得して、自分は評価されているのだと満足してもらわなくてはいけないのです。
働き蟻を10匹集めると、働きの悪い蟻が必ず2匹程度はいる。
これを取り除いて働きの良い蟻ばかりを10匹にすると、もっと仕事ができるようになるかというと、やっぱり働きの悪い蟻が2匹程度はいる。
じゃあ、働きの悪い蟻ばかりを10匹集めたら、皆、働かなくなるのかというと、それでも働かないのは2匹くらいで、他の蟻は働くようになる、と言うのです。
蟻と人間を一緒にしては、叱られてしまいますが、適材適所というのは、仕事ができるかできないかという評価だけではなく、もう少し広い視野で見なくてはいけません。
働かない人がいるから、働く人が目立つのであり、雑用をしてくれる人がいるから、小弟になる仕事に集中できる人がいる。
人間関係を円滑にすることに長けている人もあれば、不得手の人がいます。
同じことを繰り返しずっと続けてやることができる人もいますし、できない人もいます。
変化への適応能力に優れている人もいれば、堅実に間違いなく仕事を継続するのに適している人もあるのです。
私の部隊に重度の鬱になった人が転勤してきたことがありました。どこの部隊も受取手がいないから、出身地で面倒をみてやってくれと言うのです。
皆、鬱になった者を可哀相だとは思うが、仕事の邪魔になるから受け入れたくない。
その一方、リーダーがその人をどのように受け入れるのかを見ています。
意識するとしないとに関わらず、心のどこかで、明日は我が身だと思って見ているのが人間です。万が一、自分がそのような境遇になったとき、どう扱われるか。そのくらいのイマジネーションは働きますし、働かない人には、そうだと教えるのです。
「情けは人のためならず」なのだと。
皆で上手に面倒をみて、仕事をカバーするように仕事のやり方を工夫し、指導すれば、チームの団結力は高まりますし、細やかな気遣い、気配りができるようになり、人の面倒見が格段に良くなります。自分のことだけしか考えていなかった者が、他の人のこと、チーム全体のことを気にかけるようになります。
転勤してきた鬱の人には、その人にしかできない役割があったのです。
重度の鬱から復帰してきた人の面倒をみるわけですから、「このような考え方で、こういうことを支持しているのだが、良いのだろうか」と、精神科の医者にもカウンセラーにも相談し、妥当性かどうかを確認しましたが、皆さん「それ以上のケアができるところは病院でもありません」と言って、私が質問する以上に、逆に熱心に話を聞いて下さいました。
職場は以前よりもコミュニケーションが良くなって、それまでは関心を持たなかった他の人の仕事まで、よく理解するようになりました。
まさに、怪我の功名(笑)でしたが、知らず知らずのうちに、皆が、いわゆる“多能工”になって、仕事の効率性が上がっていたのです。
リーダーは、与えられた人材を活かすのが仕事であり、無駄な人材など、一人もいないのです。