素晴らしいリーダーは、部下に仕事を任せる人だ、ということはよく言われる。

その通りだろうと思う。

・・・・が、この話、たいていは第三者が無責任に、「どのようなリーダーが理想か」をしたり顔で語るときに出てくるような気がする。

上司が「任せる」ということは、部下は「任される」ということ。お互いの信頼関係と緊張感がなければ、決してそのような理想的な関係は存在しない。

「任せる」にしても「任される」にしても、現実には、そこには信頼関係を持続するための相当の努力が不可欠なのだ。

信頼がとぎれた時点で、「任せる」ことも「任される」こともなくなる。

軽々に「任せる」とは言えないのだ。

「任せる」と公言するのは、そう言い切ることが必要だと思ったときだけだろうが、その影響を考えれば、公言する必要などサラサラない。余程の信頼関係と確信がなければ、言い切れない。

とすると、その信頼関係や確信はどこから生まれてくるのか。

私自身はと言えば、若い頃から、仕事を任せてもらっていた。

「仕事を任されないようであれば一人前じゃない」と思っていたから、大言壮語するわけではなかったが「任される」ように語り、そのように振舞っていたのでそうなったのだと思っている。

何しろ、若い頃に、同じ中隊で同じ職務(小銃小隊長)を7年半もしていたので自然とそういう環境になかにいた、と言うことかもしれない。

そのうち5年間は部隊レンジャーの教官をしていた。他に誰もレンジャーの教育を担当する資格を持っていなかったからそうなった。つまり、私がいなければ、部隊レンジャー教育はできなかったし、経験者もいなかったから、主任教官である私に「任せる」しかなかったのだ。

私が初めて部隊を出て、幹部候補生学校の区隊長になったとき、「愕然」と言って良いほど、心底驚いたことがあった。

他の同期から一目も二目も置かれていた大変優秀な男と一緒に、上司の指導を受けたあとのことだった。

私は、上司の指導は仕事へのアドバイスのようなものだと気軽に考えて、それを自分の仕事にどう活かそうかと安易に考えたのだが、彼は「上司の意図をどう実現しようか」と真剣に悩んでいたのだ。

彼は、小隊長をとうの昔に卒業して、隊員が千人もいる普通科連隊の運用を担う幕僚を経験していたから、私のように20数名の隊員しか指揮していない者とは経験が違っていたから、幕僚と言う仕事は、そんなことを考えなくてはいけないのかとビックリした。一種のカルチャーショックだった。

言われたらことはやるのは当たり前だが、上司が話した言葉を「解釈」して、仕事をしようなどという発想がなかった。

一応、優秀な同期をまねて、考えてみようとしたのだが、上司が口に出して語った言葉以上のことは良く分からないのである。

「バカの考え休むに似たり」と言うが、本当に考えようとしただけで、思考が停止してしまうような気がした。

一瞬悩んだが、私にしてみれば、必要があれば「ちゃんと言えよ」としか思えず、分らぬことを考えるよりも、上司が言ったことを実現して、よりいい内容にすれば文句を言われることもない。それでダメならまた何か言われるだろうから、そのときにもう一度考えればいいじゃないか。というレベルの判断。

結局、上司の仕事をしているのではなくて、自分の仕事をしているのだ。自分の仕事に責任を持つのは自分しかない、というのが私の結論だった。

これだけのことを考えてこれだけのことをやった、ベストを尽くしたのだ、と言えるようにする。上司の意図を体してやろうとして消化不良で納得できず、ベストを尽くしたと言えないよりはいいだろう、と自分勝手に割り切った。

そんな発想でいたから、「任されない」仕事はなかったのだ。

自分の考えを言わない者、言えない者は価値がない、と思ったから、仕事に関しては自分の考えをハッキリ言った。言えないことが恥ずかしい、と思っていた。

従順ではないと思われていたかもしれないが・・・。

私を見ていて「好きにやっている」と言う人は多かったようだが、報告せずに黙って「勝手にやる」ことはしなかった。なぜなら、そんなことをしたら「任せてもらえず」、好きにやる自由度がなくなってしまうから。

「任される」のは、任される者の相当の努力があってこそのものであって、単にリーダーが素晴らしいからではない。

人間としての信頼関係だ、と思っている。